ハラハラにハラハラする

セクハラから始まり、パワハラ、モラハラ、カスハラ
躁鬱にパニック症、いろんな症候群など、知らなかった病名が増えているように思います。
現在だから増えているんでしょうか?
いや、同じようなことが昔からあったように思います。
「いじめ・嫌がらせ・罵倒・喧嘩」はまるで悪に振り分けられていますが、本当にそうでしょうか?
「躾・扱き・教育・慣習」はどうでしょう、愛なのか、度が過ぎれば悪なのか、昔の人はどう対処していたのか、それはほとんど「辛抱・我慢・忍耐」を強いられていたのでしょうか。

人間の良心、モラル、マナー、意志の強さはどこに行ったのでしょうか。
これら各ハラハラに、コミュニケーションをもぎ取られた人間はどんなコミュニケーションをしていけばいいのでしょうか。ますます本音の見えづらい会話の中、どうやって人の思いを、人柄を、人格を計ればいいのでしょうか。
挙句の果てに、あったこともない声すら聞いたことのないSNSでの出会いに左右されるコミュニケーション、そこに付け込み、なりすましや詐欺行為が横行する世の中で搾取が増えていくのです。

実際に「見る・聞く・触れる・味わう・嗅ぐ」という人間の五感を制限され、失敗をしないことで経験値は上がらず、バーチャルの世界でのコミュニケーションが何を産んでいくのかを思うとき、何か冷たいSF映画の世界を重ね合わせてしまいます。

7年前から障がいを持ったアーティスト達と出会う機会があるのですが、あまり喋られない方や、身体障害を持った方、アスペルガーの思ったことをダイレクトに口にする方など様々ですが、常識的じゃない会話の中に、何かホッとするものを感じるのはなぜでしょうか。
障がい者の目や表情を注意深く見ているとどういう気持ちなのか感じ取れるように思うのです。
特によく喋るアスペルガーの障がい者は、見た目では健常者と全く変わりないのですが、遠慮なく思ったことを話します。そこには忖度もなく、相手が傷つく言葉でも口から出てきます。でも、自分が気がつけば、すかさず「ごめんなさい」が出てくる。思っていることが口から出るのを止められないのです。
そんな時は、こちらも思ったことをはっきり伝えます。周りが聞いていると「そんな言い方してもいいの?」と思うかもしれないけれど、そんな、裏のない会話に何か安心するのは何故でしょう。

心ある本音のコミュニケーションができれば、そこには信頼が芽生えるのでは、と思っています。
それには自分に正直に、考えをしっかり持っていなければなりません。
知らないことは知ったかぶりをするのではなく「わからない・知らない」とはっきり伝え、知っていることはどこまで知っているのか自己を把握していないといけませんね。
そして、素直になる勇気を持っておかないといけないと思っています。

思うようにコミュニケーションが取れないこと、これは最大のストレス、病気の元だと考えています。
さあ、ストレスをなくすコミュニケーションを考えましょう。

トップの写真の紫陽花は、2020年1月に亡くなったエブリワンの山本さんからいただいたもの。
7年が経ち、今年の5月にようやく大輪の花を咲かせました。

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